高名な卓球選手の福原愛さんは「昭和」最後の年である1988年11月1日宮城県仙台市青葉区国見ヶ丘に、秋田県大仙市出身のお父様・武彦さんと、宮城県登米(とめ)市出身のお母様・千代さんの間に出生されました。福原愛さんは、お母様・千代さんが38歳の時のお子さんだそうです。
福原愛さん誕生の前年に逝去されたお祖母様のお名前「愛子」より一字をもらい命名されたそうです。身長は155cm、血液型はB型との情報です。
10歳年上のお兄様・秀行さんが卓球の英才教育を受けており(なんと中国の元チャンピオンをコーチとして東京から仙台に移住させたそうです)、その影響で福原愛さんは3歳9ヶ月の1992年8月13日にやはり元卓球選手のお母様からラケットをプレゼントされ、長い卓球人生が幕を開けました。
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福原愛さんは3歳9ヶ月より平日4時間、休日8時間の卓球練習に勤しみます。4歳7ヶ月の1993年6月に初の公式戦として「宮城県小学生卓球選手権大会」に出場します。
その後福原愛さんは「泣き虫愛ちゃん」として名を馳せることになりますが、実際に「公式戦」で泣いたのはこの1993年のデビュー戦の時のみなのだそうです。
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1993年以降、明石家さんまさん、デーモン小暮さん、南原清隆さんらの著名人とのテレビ卓球対決で泣いていることから、「泣き虫愛ちゃん」のイメージがすっかり定着しています。
1998年、お父様・武彦さんの1990年より経営していた建設会社が3億5000万円の負債を抱えて倒産し、債権者から1億4000万円の返済を求めらます。この事件から、僅か9歳で福原愛さんは一家の大黒柱となるのでした。
この負債には家族の知らない連帯保証などもあったそうですが、専用卓球場も所有したり中国の元チャンピオンを招聘するなど、子供たちに対する卓球投資がかさんだといわれています。
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1999年に10歳4か月で小4の時にでプロ宣言し、大阪府八尾市の「ミキハウス」と専属契約を結び関西へ引っ越します。2001年コーチの黄智敏さんと「1分間に175回のラリー」というギネス記録を残しました。2003年・14歳の時には世界卓球選手権個人戦に抜擢され、日本人で隋一ベスト8に進出するという快挙をみせています。
2004年、福原愛さんが15歳の時、お父様・武彦さんとお母様・千代さんは協議離婚します。1億4000万円の債務で家族に迷惑が掛からないようにするための、お父様・武彦さんの決断だったといわれています。
離婚によりお父様のみ、家族から2km離れたアパートに1人暮らすこととなりますが、お父様・武彦さんとお母様・千代さんは、揃って福原愛さんの応援をしていました。更には10歳年上のお兄様・秀行さんも仕事を辞め、福原愛さんのサポートに専念しています。
2004年4月、青森山田高校に進学します。この年15歳でアテネオリンピックに出場し、長嶋茂雄さんの代役として聖火リレーの最終走者を務めます。このとき福原愛さんはメダルは関係ない試合でしたが、テレビ放映トップの最高視聴率31.9%を収めています。
アテネオリンピックではお母様・千代さんは、緊張で食が細くなってしまう愛さんのために大量のおむすびを会場に持参しようとして、入り口のセキュリティ・チェックで、「不審物」として止められた、というエピソードがあるそうです。福原愛さんは2021年に小学校時代の友人と、会社omusubiを設立していますが、この社名の背景にはお母様・千代さんのおむすびへの想いがあるそうです。
2005年4月、「グランプリ」と専属契約を結びます。中国最高峰の「中国超級」リーグに2年連続参加して、広大な中国大陸を行脚することとなります。
2007年4月、早稲田大学スポーツ科学部に入学し青森から東京の阿佐ヶ谷に引っ越しました。この年「グランプリ」との4年契約を2年で終了しANAと単年契約を結んでいます。同年、『とっさの中国語』(NHK教育)にレギュラー出演しています。
2009年に福原愛さんは世界選手権で惨敗しています。この頃、福原愛さんのお兄様・秀行さんがお父様・武彦さんに対して、「愛さんに関わらないで欲しい」と引導を渡したとされています。お父様・武彦さんとの離別の後、福原愛さんのマネジメントは、お兄様・秀行さん経営する「千秀企画」が受け持っています。
家族の中で唯一、まったく卓球経験のなかったお父様・武彦さんと家族の間には、一種の溝があったのではないかとされています。
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2010年3月に早稲田大学を退学します。2010年頃から、お母様・千代さんは60歳を過ぎて、調理師の専門学校に通い、栄養面でも愛さんの卓球生活を支えました。
2012年ロンドンオリンピック団体戦で銀メダル、2016年リオオリンピックで団体戦で銅メダルを獲得します。
2013年、お父様・武彦さんがすい臓がんで逝去されました。晩年は秋田県湯沢市の秋の宮温泉郷で働いていたそうです。福原愛さんは中国の天津でお父様の逝去を知ったそうです。
2014年、福原愛さんは腰痛を発症し、長期欠場を余儀なくされました。その際、台湾新竹市出身の卓球選手である江宏傑(ジャン・ホンジェ)さんが親身にサポートしていました。
2016年9月1日に福原愛さんは江宏傑(ジャン・ホンジェ)さんと国際結婚を発表しました。同2016年に、福原愛さんは、お兄様・秀行さん経営する「千秀企画」から、電通の系列会社へとマネジメントを移管しています。結婚後はお母様・千代さんも一緒に台湾に移り住みました。
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2017年10月13日、第一子女児のあいらさんが出生します。
2018年10月21日、現役引退を表明します。この年、お母様・千代さんは「未来のいしずえ賞」を受賞されました。この後2020年頃からお母様・千代さんは体調を崩され、車いすでの生活になられたそうです。
2019年4月3日に第2子男児が出生されます。
2021年7月8日、江宏傑さんと離婚を発表しました。2人のお子さんについては共同親権を選択し、福原愛さんと江宏傑の双方で親権を有するそうです。
お母様・千代さんは江宏傑さんとの離婚に反対をしており、離婚後は仙台で福原愛さんと別居をすることとなりました。
福原愛さんは離婚直前には、2人の子育てとお母様・千代さんの介護とで多忙だったと言われています。
離婚の原因には、江宏傑さんのDVやモラハラがあったとされています。江宏傑さんには、中国のバラエティアイドル「林葦ニー」さんと不倫の噂もありました。
福原愛さんも離婚直前の2021年3月に、既婚者である5歳年下のイケメン商社マンと横浜中華街での連泊不倫デートが報じられました。福原愛さんは一体ここからどこへ向かっていくのでしょうか?福原愛さんに注目していきます。